「時の宙づり」展

kudokan

伊豆フォトミュージアムで開催中の「時の宙づり 生・写真・死」展を見てきました。

最寄りの静岡県三島駅までは東京から約二時間なので、日帰りで遊びに行くにはちょうどいい距離です。

三島駅から無料シャトルバスで20分ほどの、「クレマチスの丘」と名付けられた一帯に、伊豆フォトミュージアムはありました。

「クレマチスの丘」は山の裾野に近く、美術館やレストランが集まっていて、一日ぶらぶらと散策できそうです。

展示は、最近日本でも翻訳が出始めた写真史家のジェフリー・バッチェンのキュレーションによる、ヴァナキュラー写真のコレクションでした。

ヴァナキュラー写真というのは、写真家が撮ったプロの(従来の美術や写真論の文脈で取りあげられるような)写真ではなく、家族の記念写真やスナップ写真、遺影といった、普通の、しかしその写真が撮られた土地や文化に固有の写真のことを指します。(身近な例では、プリクラやチェキなんかもヴァナキュラー写真と言えます。)

この展示がとても面白かった。

鏡に映り込んだ幻のような銀板写真(ダゲレオタイプ)、写真の周りに花が飾ってあったり、髪の毛が巻いてあったりするハイブリッド写真、メキシコのフォトエスクルトゥーラ(写真を組み込んだ彫刻飾り)など、なぜかどれも見ていて興奮を禁じ得なかったのですが、その興奮が頂点に達したのは、展示室内から中庭の見える通路を通り抜けて足を踏み入れた、最後の展示室においてでした。

そこには、スナップ写真がランダムな配置で飾ってありました。どれも、ただのスナップ写真です。しかし、ただのスナップ写真というだけではなく、そこに飾ってあるすべてが、撮影者の影が映り込んだスナップ写真だったのです。

日本のものもあれば、アメリカと思しき海外のものもあり、白黒からカラーまで、撮られた時代もばらばらなら、着ているものや映っているものも異なる写真たち。しかし、カメラに向ける表情には奇妙に統一感がある。

そして何より、撮影者の影。写真には通常映らないはずの撮影者が映っていることが、写真のフレーム外を強烈に想像させる。どういうタイミングでこの写真は撮られ、どうして被写体はこのポーズなのか。撮影者との関係はどんなで、撮る前にどのようなやり取りがなされたのか。ここに流れていた/いる時間はどんなものか。

この想像は、ロラン・バルト以降、死の感覚と結びつけて論じられることが多かった写真に、奇妙な生命を取り戻す気がします。言うなれば、心霊写真のような。生きているとも、死んでいるとも言い難いこの状態を、この展示量で見るという経験は、かなり面白かった。

実際、公式カタログ所収のバッチェンによる「生と死」という論文によれば、バッチェンの今回のキュレーションを通じたヴァナキュラー写真への取り組みは、「バルトの教えを複雑化すること」を目指しているそうです。

杉本博司設計の建物と展示もすごく合っていたし、なにより写真を飾っている額がすごく良い。(額や展示形態に気を配るのはデュシャン以降の常識だと思うのですが、地中海美術館などいくつかの私立の美術館を除けば未だに、ごちゃっとした、金持ちの趣味っぽい額をよく見かけます……。)

伊豆フォトミュージアム、大満足でした。

http://www.izuphoto-museum.jp/index.html


3 Responses to “「時の宙づり」展”

  • tunoo Says:

     8月20日まで開催しているのだね!伊豆自体も良いところだし、是非行ってみます。
     二年前に家族で行ったときは、東府屋という渡り廊下が美しい老舗旅館に泊まったが、昨年潰れてしまった。しかし、二年前も潰れるのが頷けるほど寂れていて、まさに『秋津温泉』の世界が広がっていました。宿泊客も少なく深閑とし、道路を歩く人も疎らで、壊れかかった橋があり、使われなくなったプールが佇み、それら窪地一帯の四方を、残暑の山々が濃緑に囲む。あの情景は死だった。死にゆく街というものを初めて見た。
     伊豆=死イメージを打開すべく、もう一度行きたいなと。

  • kudokan Says:

    いや、基本的には私も死のイメージを見ましたね、伊豆の街には(笑)。
    駅前以外はほんとに人気がなくて。
    だからこそ、ヴァナキュラー写真から立ち上るかすかな、それでいて圧倒的な生の感覚が際立ったとも言えるのではないかと。
    ともあれ、お薦めです!

  • kudokan Says:

    一つ訂正。
    プロの写真家が撮ったのではなく云々と書きましたが、森山大道の写真が「撮影者の影が映り込んでいる写真」のコーナーに展示してあったので、プロ/アマは関係ないみたいですね。
    失礼しました。

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